JCMR KYOTO 本公演 Vol. 1 「Emic/Etic~独奏曲の東西~」 続報 伍

昨日は、JCMR KYOTO提携公演「日本+現代+作曲 日本の作曲〜若い世代の作品を交えて」が無事に終わりました。ご来場いただいた方々、御礼申し上げます。
そして、1週間後の8月2日には、JCMR KYOTO本公演「Emic/Etic〜独奏曲の東西」が開催されます。
こちらにも是非お越し下さい。


今回の公演では邦人作曲家と西洋の作曲家の、特に、独奏曲に焦点を当てて、対照してみようという企画です。
一概に独奏曲といっても無数の作品があり、その中から選択するわけなので、ある程度の「独善的」な判断がなされていることはご理解いただけることと思います。
タイトルのEmic/Eticというのは、その「独善的」な判断の指針としての働きを持っているわけです。

どちらの言葉とも音韻論の用語で、言語学者パイクの造語であり、人類学や音楽民族学などにも用いられるようになったものです。
音楽的な文脈での用法を簡単に説明すると、Emicとは、モノ・カルチュラルな個別文化の研究ということができ、文化を内側から分析する「当事者的」態度です。
Eticとは、クロス・カルチュラルな通文化研究で、文化を外側から客観的に分析する態度です。

さらに付け加えると、Emicの態度は、当該の文化に属さない人間がその文化(この場合は音楽)を認識したとしても、その文化で生まれ育った人間の認識にまで至ることはないという前提を含んでいて、それはモノ・カルチュラル、すなわちある一個の文化からの視点というものを、当該文化の「他者」は獲得し切れないというものなのです。

この概念を援用して、日本の作曲家にとって、西洋楽器を使って西洋音楽を創作するという行為は、西洋音楽という輸入された文化への「他者」という視点と、輸入された音楽を醸成し、自らのことばへと取り込んだという意味で、文化的な「自己」という視点の両方を持つのではないか?

また、日本の作曲家に対照される西洋の作曲家も、ただ西洋的な立場にたって創作をした作曲家ばかりではなく、西洋への「疑義」をいだき、ある種の「東洋的」な美意識へ共鳴する作曲家(メシアン、ケージ)や出自そのものが境界線上にあるような作曲家(グバイドゥーリナ)がおり、それはある意味において、日本人作曲家のもつ「Emic/Etic」な視点を、ちょうど反転させた形で彼らにもあるものではないか?と問いかけるのが公演のタイトルの意味なのです。


すこしばかりこ難しい理屈をこねてはいますが、とりあげる作品はどれも聞きごたえのある作品ばかりですので、理屈抜きで興味をもっていただければと願っています。

楽器の特性を活かした作品があれば、特殊奏法を多用した作品もあり、果ては図形楽譜による作品もあるという多彩な内容となっています。

興味をお持ちのかたは下記アドレスまで、お気軽にご一報ください。

jcmr.kyoto@gmail.com